「嘘だい。そんな名前あるわけないやい!」
「じゃあ、これ見てみな。」
見た息子は絶句、「いるんだね、ビンボー・ダナオ、、、」
淡路恵子が亡くなった。私はほとんどテレビを見ないのだが、ほんのちょっと前にかみさんが見ていたさんまの番組だったかに、彼女が出ていたのを思い出した。最後にスタジオを出て行くときに、若いタレントさんに手を引かれて退場をするのを見たとき、ああ、随分歳を取られたんだなと思ったのだが、、、。
基本ドラマや映画を見ないので淡路さんの作品の思い出はないのだが、数年前に伴淳三郎の映画の会にゲストで米沢にいらしたときに遭遇した縁。
淡路恵子はSKD(松竹歌劇団)の出身だから、ちょっと映画女優とは違う感じがしている。映画女優は気取ってナンボの商売だが、踊り子はいつもホンネだ。自分の肉体が資本なのだ。だから晩年でも彼女のトークの場が設定されたのだと思う。
米沢でも田舎者のバンジュンの話ではなく、のり平や森繁の話が中心だったように思う。ただそれがすごく恰好のいい義姉さんだった、という印象。
ビンボー・ダナオとの結婚、そして離婚、中村錦之介との結婚、そして離婚、山のような借金、二人の息子の死、「ドラクエは裏切らない。」と語ったいろんな人に裏切りを受けてきた淡路恵子。
次の人生は淡路恵子は厭だ、毎日みんなのご飯を作る、漁師のおかみさんになるんだと言った彼女。そうそう、淡路の母は網元の娘だったのだ。
「そして風が走り抜けて行った・ジャズピアニスト・守安祥太郎の生涯」という評伝があり、守安は独身だったのだが、淡路恵子に恋をしていたという話を受けて著者の植田紗加栄は淡路にインタビューする。
本人は守安のことを全く記憶しておらず、SKD時代お稽古のピアノの先生がいたぐらいしか憶えていなかった。
その何ともいえずからっとした乾いた空気間のある彼女が、何とも好きだった。
※写真は1956年4月の日本劇場江利チエミショウ「ジャズ娘に栄光あれ」のパンフレットより。